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「琅琊榜(ろうやぼう)-麒麟の才子、風雲起こす-」と「宮廷の諍い女」を比較-面白い物語とは何か

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中国本土のみならず香港、台湾、そして韓国や日本でも大ヒットした中国ドラマ
「宮廷の諍い女」(原題:后宫・甄嬛传・後宮・甄嬛傳)と「琅琊榜(ろうやぼう)-麒麟の才子、風雲起こす-」

この2作品は共通点も多いのですが比較する事により「面白い物語を作る条件とは何か?」を探っていきたいと思います。かなりの長編になる予定です。随時追記していくつもりですので宜しくお願いします。

「琅琊榜」と「甄嬛传」の共通点

・原作がインターネット小説である
・復讐劇である
・主要な敵が3人であり順番に倒していく構造である

このような共通点があるものの最終的な出来上がりの質は圧倒的に「甄嬛传」の方が上である。
つまり同じようなコンセプトで出発しながらも細部の違いにより作品のクォリティにも大きな差がでるという実例だと言えよう。

敵を順番に倒していくという構造

2作品の共通点で一番大きいのが
「小ボス→中ボス→ラスボス」
という順で主人公の前に立ち塞がる敵を倒すという形態である。

甄嬛传:華妃→皇后→皇帝
琅琊榜:皇太子→誉王→皇帝

そして興味深いのは2作品とも第1の敵を倒す際に第2の敵の力を上手く利用しているということだ。
琅琊榜において主人公の蘇哲こと梅長蘇は最初に皇太子を廃太子に追い込むにあたって誉王の謀臣になりその力を活用した。
同じように甄嬛传では主人公の甄嬛は華妃の力を削ぐのに皇后の力を借りた。

これは第一と第二の敵が共に敵対関係であるという事を利用している。
琅琊榜では皇太子派と誉王派が権力闘争をしていたし、甄嬛传では名目上は上の立場であるはずの皇后が大将軍を兄に持つ華妃にないがしろにされているという現状があった。

敵も味方も一枚岩では面白くない

上記の共通点に対してこの2作品で全く異なるのが
「味方・敵が一枚岩であるかどうか?」
である。

ここでまず圧倒的に物語としての深みに差が出てしまっている。

「宮廷の諍い女」で甄嬛に最初に立ち塞がる敵、華妃には取り巻きの一派が存在する。
彼女の側近であった曹貴人は最終的には華妃を裏切る事になる。
その一方で甄嬛の味方であった安陵容は皇后派に寝返った。
これらは自分の利害や嫉妬心などから起こったものだが現実の人間関係をよく反映している。
一般社会においてもずっと固定される関係性の方が少ないものだ。
この辺の敵と味方が流動的なのがこの作品の面白さの一つである。

それに対して「琅琊榜」では梅長蘇の側に不安要素は一切なかった。
せいぜい八百屋に化けた配下が捕らわれの身になった位である。
甄嬛が常に命を狙われていたのに対して梅長蘇の危機と言えば夏江に毒を飲まされた時のみ。
この違いが緊張感の差を生んでいたと思う。

人物造形(キャラクター設定)

「甄嬛传」が中国において「神劇」と絶賛されたのは人物造形(キャラクター設定)が非常に繊細かつ緻密、そしてそれが端役にまで徹底されているところに依ると思う。

主役級は勿論の事、侍女や太監に至るまで細かい性格付けがされていた。
しかもこの脇役の演技力も高い水準で本当に驚いた。

「琅琊榜」では残念ながら一般的な中国のドラマの水準といったところだ。
そもそも演出上、キーパーソン以外の描写はほぼ省かれていた。
もう一つ残念なのが主人公梅長蘇の性格が最後の最後にそれまでの冷静沈着なものから感情を露わにするといったものに急変してしまった事である。

主人公の性格の変化と言えば「甄嬛传」の甄嬛は最初と最後では全くの別人になっている。
しかしこれは当然ながら過酷な後宮での試練の連続で変わっていったものと視聴者全てが納得できる変化である。

この辺りもかなり両作品で差が出てしまったところであろう。

故事からの引用で深みを増すセリフ

中国は四千年の歴史とよく言われるがそれを反映するように歴史ドラマでは過去の故事を引用する台詞がよく出てくる。

「三国志 Three Kingdoms」では諸葛亮や馬謖が過去の故事を引用するシーンがよく見られた。
「宮廷の諍い女」でも故事や詩を織り込んだセリフが作品に深みを齎した。

中でも私のお気に入りは果郡王が小舟で甄嬛を送る際に交わされた会話である。

范蠡西施-1

范蠡西施-2

范蠡西施-3

この辺りは呉越の争いについての知識がなければ「なんのこっちゃ」という印象しか残らないだろう。
呉に戦で敗れた越は国で一番の美女西施を呉王夫差に献上する事によって骨抜きにしようと企んだ。
この場面では越の謀臣である范蠡は自分が愛する西施を他人に渡すとはなんて薄情なのと詰ってるのである。
そして果郡王と甄嬛の関係はこの後范蠡と西施の関係性に酷似していくのである。

こういった会話に対する理解はなかなか初回の視聴では正しくし難い。
それであるが故に後で調べなおして再度見た時に新たな発見や感動が得られるのである。

もう一つ故事を効果的に使ったシーン。

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こんな冬の日には一つの故事を思い出しますわ。

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漢の高祖(劉邦)の時代

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戚夫人は呂后に無礼な振る舞いをしました。

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呂后が太后になった時

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戚夫人の手足を切り落として

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目と耳と喉を潰して

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厠に放り込んで人豚と呼ばせました。

華妃の側近で数々の悪だくみを考えた曹貴人と斉妃を焚き付けて侍女にビンタさせた富察貴人を招いての会話。
ここで甄嬛が有名な人豚の話をする。

当然二人は甄嬛が自分への復讐を考えてると思いゾッとする。

漢を建てた劉邦(高祖)の側室の戚夫人は寵愛から己惚れて自分の子供の劉如意を皇太子にしようと企んだが結局は呂雉の子供の劉盈が即位して呂雉は皇太后になった。

今までの恨みを晴らすために劉如意を殺して戚夫人を手足を切り落として目と耳と喉を潰した上で厠に投げ込んで人豚と呼ばせた。

この話を聞いて富察貴人は気を失う。

次に甄嬛が小島に避難、安さんが皇后のスパイとして付いていった時。
甄嬛が読んでいたのが玄武門の変。

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李世民が兄と弟を殺して唐の第二代皇帝太宗となった。
兄弟殺しというのはこのドラマでも大きなテーマであるがそれを暗示している。

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皇太后は私の好きな故事「狡兎死して走狗烹らる」を使っていました。
これも上記の范蠡が越王勾践の元を去る時に同僚の文種に宛てた手紙に書かれていたもので後に漢の大将軍韓信も使っています。

「甄嬛传」の原作は特定の時代を想定していなかったがドラマでは清朝の雍正帝という設定にして上手く史実と整合性を取った。だから故事の引用も自然に感じられる。

それに対して原作同様架空の国名、人物しか出てこない「琅琊榜」の場合は完全フィクションであるのにそういう引用をするとおかしくなってしまう。

この辺りも両作の差になっている。

パワーバランスの問題

「琅琊榜(ろうやぼう)」が佳作止まりになった最大の要因は梅長蘇が無敵過ぎた事である。
番組の宣伝文句で出てくる三国志の軍師「諸葛亮(孔明)」と比較すればよくわかる。

諸葛亮は呉の大都督周瑜の打つ手を悉く先読みしていた。
だから周瑜は毎回やられっぱなしでいつも歯ぎしりをして悔しがり最終的には

「天は既に周瑜を生みながら、何故諸葛亮も生んだのだ!(既生瑜、何生亮)」

と恨み文句を吐いて死んだ。

梅長蘇はこの時の孔明と同じくらい完璧だった。

さて諸葛亮がこのままずっと完璧であれば当然劉備が天下を取り三国志ほど人々の心を掴む物語にはなっていない。

諸葛亮がいくら優れていても自分のいう事を全く聞かない関羽や張飛、止めているのに関羽の仇を取る為に無謀にも呉に攻め入り大敗した主君の劉備、命令を無視して山頂に陣を敷いて味方を全滅させた馬謖・・このように身内に足を引っ張る馬鹿が大勢いたので孔明の力が削がれて面白かったのである。

梅長蘇の周りの江左盟の臣下は皆完璧過ぎた。

そして前述の通り敵が弱すぎるのが物語的には緊張感を失う原因になった。
第一の敵、謝玉までは良かったが第二の敵である夏江が全く愚か過ぎてどうしようもなかった。
それと誉王の謀臣の秦般弱がもう少し聡明であればもっと互角の面白い展開にできたはず。

「宮廷の諍い女」では最初の敵「華妃」、次なる敵「皇后」とも手下を多く擁して悪の限りを尽くした。
主人公はほぼ孤立無援で最終盤まではほぼ自分の命を守るだけで精一杯だった。

この辺のパワーバランスの設定が両作の物語としての面白さの差になってしまった。

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